元々自分が病弱という自覚がなく、フルーツアレルギーの人と話して「大変ですね、不便な事とかないんですか?」と間抜けな事を聞いていたのを覚えています。
そこから数か月、アレルギー検査で90%が陽性、病院をたらいまわしにされ化学物質過敏症に、急転直下でした。
会社を任せ東京から秋田県へ稲作をやりに行きました。
一つ目に得られたことは、人に仕事を任せるという事かもしれません。
僕はプレーヤータイプなので、とても難しい決断でした。
移住先の秋田で得られたこと、二つ目は、地方都市とはどういうものか、農村とはどういうものか、その社会や文化、人について学びました。
自然に任せ消滅していく、現場ではそれを受け入れている人が大多数な事を都会人は知らない、そう思っています。
三つ目は米や野菜の作り方、流通構造です。
僕は家庭菜園でいいかなと、仕事にするもんじゃない、でも、とても楽しかったです。
四つ目は、雪国ではどうやって生活するのか、雪掻きを毎日三か月間、最後は捨てる場所がなくなりました。
ガソリン代、灯油代、電気代の高騰で一番打撃を受けているのは雪国じゃないでしょうか?
五つ目は京都に引っ越して料理を覚えました。
やってみるとなかなか面白く、ミシュランシェフのテクニックさえもユーチューブでいくらでもありますが、素材のこだわり+味+化学物質過敏症対策済+アレルギー対策済のものはなく、病気克服にあたりとても役に立ちました。
六つ目は栄養学に詳しくなったことです。
断食後一つ一つ食べては体の反応を見るという事を繰り返し、そこに含まれる栄養素を調べ、何を食べたらどうなるという事を積み重ねました。
七つ目は病気を克服した事により、健康体とは何か、どうすればそうなれるのか知った、これは大きな財産になると思います。
僕が療養していた期間は、コロナで世間様も外出自粛令が出たりして、人類皆化学物質過敏症状態、僕だけが大変だったわけではないかもしれません。
むしろ皆が自粛中に僕は東京から飛び出し野山を駆け巡っていました。
コロナが明けると同時に、僕の化学物質過敏症が治りました。
こういう都合の良い事は十代の頃から何回もあって、今京都にいる理由もいずれ分かると思っています。
① 人に仕事を任せられるようになった
② 地方を知った
③ 米や野菜を作れるようになった
④ 雪国で生活できるようになった
⑤ 料理が出来るようになった
⑥ 栄養学に詳しくなった
⑦ 健康をコントロール出来るようになった
今回の苦難は死の淵まで追い込まれ大変でしたが、書き出してみると悪くない経験でした。